望ンダ光

後編

　――その日から、村には大雨が続いた。

　もとより明るいとは言えなかったが、あまりの長雨で、ただでさえ人気のない館は、いっそう暗くなったようだった。
　……もっとも、人気がないのは、例の件で口の軽い使用人をまとめてクビにし、館からほとんどの人間がいなくなったせいだったが。

　わずかに残った使用人頭から、雨が上がり次第、何人か臨時の掃除夫を雇うように言われていたが……そんな気にもなれなかった。

　館にカビが生えようが、壁が崩れようが、どうでもいい。いっそ雨が館ごと流し去ってくれるものなら、それもいい。……そんなことさえ、思っていた。

　……それにしても、考えがある、そう言ったあの男は、いったいどうしているのだろう？

　あの後、男が笑った後。

　どこに向かってと言うわけでもなく、フラフラと歩きながら男の言葉の続きを待っている内に、いつの間にか、あの男は姿を消していた。
　私はそのまま館に帰り、それから……もう二週間になるが、何の連絡もない。
　あの出来事は、まるで夢だったかのようにさえ思えてくる。

　――夢、か。

　呟いて、私は一人笑った。

　……本当に夢だったら、どれだけいいだろう。

　湖での、竜と彼女の密会。
　彼女の、竜への愛の肯定の言葉。
　理想を一つとして手にすることができず、何もかもうまくいかない、惨めな今の自分。

　「本当に、夢であれば、どれほど……」

　そう、言葉にした時だ。

　不意に、木がきしむ音がした。
　慌てて顔を上げ、ドアの方向に目を向ける。

　……ドアの向こうの闇に、一つ、赤い三日月が浮かんでいる。
　あの、男だった。

　「……何のつもりだ。ノックぐらいしろ」

　私は不機嫌を表すように眉をひそめたが、男は気にも留めず、軽く頭を下げた。

　「失礼いたしました。
　　一刻も早くお知らせしたいと思いまして、気が急いてしまいました。
　　どうかお許しください」

　「…………。
　　……それで、用はなんだ」

　あまり好ましい態度ではなかったが、男が来た理由の方が気になり、私は男に尋ねた。

　……私が聞くと、男はククッ、と低い笑い声をもらした。

　「準備が、整ったのでございます。
　　あの悪い竜を殺す、その準備が」

　……男の話は、こうだった。

　この長雨で、古くからあるこの村の堤防は、ずいぶんと弱っている。
　もし堤防が壊れれば、湖のそばにあり、地形としても低いこの村は、一瞬で土砂に埋まってしまうだろう。
　……だがあの竜にとって、この村は大事な自分のなわばりで、失えば竜自身の生存が危ない。
　それゆえ、自分の体で村を守らざるを得ないし、それによりあの竜に強いダメージを与えることができる、と。

　……しかし、自然に崩れた半端な土砂では、ダメージは与えても、あの巨大な竜の命を奪うまでにはならない。
　そのためには……竜を退治するには、私が魔法で、土台からあの堤防を崩してしまえばいいのだ、と。


　「……魔法で、土台を崩す？
　　……だが、私の魔法に、それほどの力はないぞ」

　話を聞いてすぐ、私はそう言っていた。

　……実際のところは、わからなかった。

　魔道には詳しく、それなりに魔法も覚えていると自負していたが、実際に自分の魔法の効果を試してみたことは、ここ数年、ほとんどない。
　自分の魔力や魔法が、実戦でどれだけ役に立つかは、定かではなかった。

　……できないかもしれないし、できるかもしれなかった。

　……だが、堤防を壊すのには、無気力な中にも抵抗があり、それが自然と、否定の言葉として出ていたのだろう。

　しかし、男は言った。

　「いいえ、リュウベン様。リュウベン様は素晴らしい力をお持ちです。
　　リュウベン様は、ただ私が言う呪文を、
　　そのまま繰り返していただければいいのです。

　　……大丈夫、リュウベン様の力ならきっと、うまくいきますとも」

　……男の言葉は何故か、不自然なほど自信に満ちていた。

　……外の雨は、思った以上に激しかった。

　ある程度は雨を弱めてくれるのであろう森の木々の下で、館の者に用意させた、雨天用の厚手のコートを来てなお、雨粒が私の身を叩くのを感じられた。

　灰色の空は時折光り、木々は魔物のような鳴き声を上げる。

　私は思わず目を細め、腕で顔をかばったが、前を歩くあの男は、何一つ様子を変えないのが、私から見ても不思議だった。

　色の薄い、暗い世界を、闇を身にまとって先導するその姿。
　……まるで、黄泉路の案内人のようだ。

　打ちつける雨の中、ほとんど男の小さい背中しか見えない状態で、私はそんなことを考えていた。

　そうして、どれだけ歩いただろう。
　男が立ち止まり、私を手招きした。

　私が男のそばまで行くと、そこからは堤防と、そこに打ち付ける激しい濁流が見下ろせた。
　……どうやらここは、川から少し高い位置にある丘のようだったが、水の音はここまで届き、何かの拍子に落ちれば、ひとたまりもなく水に呑み込まれるのが、私にもわかった。

　……この堤防を、壊す？
　この水を、この力を、そのまま村に向けるのか……？

　目の前で起こっている、あまりの水の勢いに、ためらいがうまれた。

　――確かに、村の連中は気にいらなかった。
　人の身でもないのに、彼女の愛を得たあの水竜を、邪魔に思っていたのも事実だった。
　もし、この男の言っていたように、あの竜が彼女に呪いをかけて操っているのだとしたら、許せなかった。
　……その呪いを解くことで、彼女の心が私に向くのならば、願ったりだとも思った。

　……だが、だからと言って……。

　男は、濁流に目を奪われたままの私の肩を揺らし、急ぐようにうながしたが、私は動けなかった。

　……その時だった。
　堤防のそばに、あの竜と、彼女、そして幾人かの村人がやって来たのは。

　私たちはとっさに身を伏せた。

　実際は伏せたところで効果があるような位置にも見えなかったが、幸い、大雨とそれを降らしている厚く暗い雲のおかげで、彼女たちは気がつかないようだった。

　気づかれていないことを確認した後、伏せたまま身をずらし、彼女たちの様子をうかがう。

　今日の男は、人ではなく――本来の、竜の姿をしていた。

　森の木々が庭木に見えるほど、青く巨大な、竜の姿。
　彼女も、その周りにいる村人も、雨をふせぐべく薄い布を被って、心配そうに竜の言葉を待っている。

　……竜たちは、長雨で弱った堤防の様子を見に来たようだった。

　――もう、もたないかもしれない。

　竜が流暢な人の言葉でそう言うと、村人たちはざわめいた。
　動揺し、騒ぐ彼らを、彼女がどうにか落ち着かせると、竜は村人に、今から避難するように告げた。

　――この堤防が崩れれば、大量の水と土砂が流れ込む。
　できる限りは止めてみせるが、全てをこの身で留める保証はない。
　万が一、水や土砂に村が呑まれてもいいように、今のうちに皆で高い場所に避難した方がいい、と。

　……村の男たちはあわて、残してきた家族を避難させるため、ほとんどの者が我先に、と村へ戻る道を走り始めた。
　一瞬出遅れた者たちも、すぐにその後に続こうとした。

　……だが。

　彼女は、動かなかった。
　残っていた村人が手を引こうとしても、青い竜が何を言っても、彼女は頑なにその場から離れようとしなかった。

　押し問答がしばらく続いたが、結局、一人、また一人とその場を離れ、最後まで残っていた村人も、青い竜と彼女に、時間がないから早く戻れ、と言われ、仕方なしにその場を去り――打ち付ける雨の中、青い竜と彼女、二人だけが残された。

　濁流の音が更に激しくなるに連れ、青い竜はまた、彼女に何かを言ったが、彼女は首を横にふり、竜を見上げ、はっきりと言った。

　「ジェイヴァ……何を言っても、無駄よ。
　　私、絶対に離れない。
　　たとえ何があっても……最後まで、あなたのそばにいるわ」

　……青い竜は、それ以上、何も言わなかった。

　何も言わず、ただ濁流の襲う堤防を見つめていた。


　――だが、私は言いたいことで……怒りで、いっぱいだった。


　なぜ、村人たちを帰した。なぜ、力づくでも彼女を安全な場所へ行かせない。なぜ、こんな危険な場所に、彼女をいさせるんだ！

　竜よ、おまえなら、この濁流に呑まれてもあるいは平気かもしれない。おまえにとっては、命に関わることではないかもしれない。
　……だが、彼女は人間だ。こんな濁流に呑まれれば、土砂に埋まれば、ひとたまりもない！
　彼女を本当に愛しているというなら、なぜここであきらめる！私ならば、たとえ離れ離れになっても、彼女の安全を優先するのに！


　口に出せない、激しい怒り。
　憤怒、憎悪……嫉妬。
　負の感情が、私の中で激しく渦巻いていた。
　……そこに、男が囁いたのだ。

　「……なんと、ひどいのでしょう。
　　あんなに優しい女性を呪いで操り、
　　結局、最後の最後まで、自分のモノにしようとするとは。
　　……リュウベン様、あのような男を、許してもよいのですか？」

　男の囁きは、甘く、細いアメの糸のように、私の感情をからめとった。

　「あんな男を愛していると信じ込んでいること自体、
　　彼女にとっては不幸なのではございませんか？

　　リュウベン様、これは正義なのですよ。
　　卑劣な竜を退治し、村人を、彼女を救うのです。

　　……あなたの、その手で」

　からめとられた感情は、私の中で固まり、一つの黒い剣となる。
　……漆黒の剣は、生まれると同時に、私のためらいを、粉々に破壊した。

　「……呪文、を」

　「はい？」

　「あの竜を、殺すための呪文を！」

　「……クククッ。かしこまりました」

　男の口から、呪文の言葉がこぼれでる。
　私は何のためらいもなく、その呪文を繰り返し、つむぐ。

　そして、呪文は、つむがれた呪いの言葉は、完成し……
　渦巻く、暗闇が現れた。

　私の中の感情の渦が、そのまま巨大化したようなその暗闇は、堤防の岩を簡単に吸い込み、消え失せ……闇が消えたそこには、岩の体をした、縦に長い化物が、その身体をくねらせていた。

　そして、どこか竜にも似たその化物は、そのまま自らを産み、弱った堤防を、迷わず攻撃した。

　「！？」

　竜が何か声を上げたようだったが、それも一瞬だった。

　枷を失った水は暴れ、さっきまで堤防だった土を、石を巻き込みながら、竜の身体を襲う。
　それはさながら、巨大な蛇が竜を丸呑みにするかのような姿で。

　激しい水は、土砂は、全てを飲み込み、やがて、何も見えなくなった。

　……どれぐらい、時間が過ぎただろう。
　私は、意識を取り戻した。

　地に背をつけたまま開いた目に、青い空が飛び込んでくる。
　……雨は、やんでいた。

　思いのほか激しかった水の勢いのせいなのか、それともあの見知らぬ魔法のせいなのか、私もまた、意識を失っていたようだった。

　よろよろとする足で立ち上がり、同じ空とは思えない明るさの下で、あたりを見渡す。
　……もうローブの男は、いなかった。

　見慣れた場所に戻った森の道をたどり、森の、崩れた堤防のそばを目指す。
　視界に入った川のそばの木々は、むごたらしく削り取られていて、あの時の水の力を感じさせたが、流れそのものは、ずいぶんと落ち着いているように見えた。

　……彼女は？

　私は、彼女の姿を捜した。

　……彼女は、エレナは、無事なのか？

　まだはっきりしない頭で、それでも私の足は、彼女を捜してさまよった。

　ふらふらと歩くうち、どこかから、声が聞こえてきた。
　それは、彼女の声だった。

　高く、見上げても頂上がはっきりしないほど積もった土砂の中から、青く長い尾がのぞいていた。
　その青が、ひどく暗く見えるのは、土や水による汚れのせいなのか、それとも……。

　その、暗い青色のそばで。
　彼女は、ひざをついていた。

　土砂で、まだ残る水で、身体が汚れるのも構わず、地に伏した竜の体を必死に細い腕で押して、呼んでいた。

　「いや……いや！いやよ、ジェイヴァ！返事して！」

　悲痛な声で、その細い手に、力を込め、叫ぶ。

　「ウソでしょ、ジェイヴァ！
　　言ったじゃない！私、ずっと一緒だって！
　　何があっても、最後まで、ずっと離れないって！
　　それなのに、こんな、こんなのって……
　　ねえ、答えてよ、ジェイヴァ！」

　声に、嗚咽が混じる。
　……私は、為す術もなく、ただ、見ていた。

　「ジェイヴァ、ジェイヴァ！
　　ジェイヴァー！！」

　絶叫と共に、涙が落ちた。
　彼女はそのまま、竜の体にしがみつく。

　何の考えもなく、私は、彼女に触れようと、手を伸ばした。
　……その、時だ。

　突然、土砂から、光があふれた。

　……何がどうなったのかはわからない。
　だがそれでも、確かに光っていた。
　土砂の中にいる、竜の、体が。

　そして、信じられないことが起こった。
　……土砂が崩れ落ち、竜が起き上がったのだ。

　もう、動かなかった、彼女の声にも何一つ反応しなかった、あの、青い竜が。
　暗く、もはや生命の光を失ったと思われていた、あの青い体が、動き出し、はっきりと、彼女の名を呼んだのだ。

　彼女の涙は、一瞬で、嬉し涙に変わり、竜の体にしがみつく。
　……私は、その奇跡の、二人の愛の力に、ただ、打ちのめされるしかなかった。

　……敗北感と、激しい後悔。
　私に残ったのは、それだけだった。

　私は、一体、何をしていたのだろう。
　ただ、私は、彼女を……好きだった。本当に、ただそれだけだったのに。

　それなのに、私は、憎しみにかられ、彼女さえこの手で、傷つけようとした。
　なんと……愚かだったのか。

　……もう、やめよう。

　私は、彼女が幸せになるなら……
　彼女さえ、幸せで、生きていてくれるなら……
　もう、それだけで、それだけで、いいんだ……。

　そう思い、私は、泣いた。
　暗い部屋で、誰もいない中、ただ一人、泣き続けた。

　……しばらくして、彼女が水竜と結婚し、子を宿した、と聞いた。

　彼女なら、きっと、よい母親になるだろう。
　きっと、家族に包まれ、誰よりも幸せな家庭を築くだろう。
　あの笑顔が、私の望んだ光が、失われることは……ないだろう。

　だから、これでいい。そう、思った。
　……そう、思いたくて、日記に書いて、自分に言い聞かせた。

　……だが……。

　……彼女の訃報を聞いたのは、彼女の子が生まれたという知らせから、ほどなくしてのことだった。

　……信じられなかった。
　信じたくなかった。

　そんな、はずはない。
　そんなはずが……あっていいわけがない！

　……知らず、私はこぶしで激しく机を叩いていた。

　――彼女は、幸せになるはずだったんだ。
　愛する男と結ばれ、愛する男の子を産み……
　大事な家族と一緒に、誰よりも幸せになるはずだったんだ。

　そうなるはずだったのに……私は、そう、願ったのに！

　乾いた音が、部屋に響いた。

　……目の前で、机が、音を立てて倒れた。……私が叩いたその箇所から、ぱっくりと、二つに割れて。

　息を荒くつきながら、目の前の出来事を整理しようとする。
　……なんだ……これは……。
　私はいつから……こんな力を……？

　「ククッ……」

　突然、笑い声が聞こえ、声の方向を振り向く。
　……いつの間にか、あのローブの男が部屋の隅に立っていた。
　どこから入ったのか、何をしているのか……そんな疑念が頭で形になる前に、男は言った。

　「……だから、言ったじゃないか。
　　人間は人間同士、愛し合うのが一番だと。
　　あの男と愛し合えば、彼女は不幸になる……と」

　男はまた、あの低い笑みをもらした。

　「おまえ、は……？」

　男の名を呼ぼうとして、気づく。
　……この男の名すら、私が、知らないことに。

　「なあ、リュウベン様。
　　今からでも、遅くはないですよ。
　　あの竜を……水竜ジェイヴァを殺しましょうよ。
　　それも、たっぷりと苦しめて。
　　竜が人と子を生せば、その母体に多大なる負担がかかり、
　　場合によっては死に至る。
　　……あの竜は、それを知っていて彼女に子を産ませたんですよ。
　　これじゃあ、彼女は殺されたも同然だ。
　　そうは、思いませんか？」

　男の声が、不気味に部屋の中で響く。
　……こいつは一体、なんなのだ。
　なぜ、こんなことを知っている？

　「……悔しいんでしょう、悲しいんでしょう？
　　それなら、その恨み、晴らせばいいじゃないですか。
　　その力なら、私が貸してあげますから。
　　大丈夫、いい手があるんです。
　　前はしぶとく生き返った竜も、今度こそ、助からない……。
　　なあ、そうしようぜ？リュウベン様よお……」

　男はそう言って、自分の唇をなめた。
　……赤く長い、細い舌で。

　――この男、人間じゃ、ない。


　……何故だろう。
　私は、冷静だった。
　怒りに震え、目の前の男が人でないと自覚していたのに。
　どこかで、冴え渡り、冷静な自分がいた。

　「……なぜだ？」

　私は言った。

　「……なぜ、って？」

　男は、軽くあごをひいて私に聞き返す。

　「……なぜ、おまえはそんなことを知っている？
　　なぜ、あの青い竜を憎むんだ？」

　男は笑った。

　「……あんたと同じさ。
　　俺もまた、あの青い竜に仲間を殺られ、おまけに俺自身も傷つけられた。
　　だから憎む。
　　……一緒だろ？」

　男は胸をそらして顔を上げ……頭を覆っていたローブが、肩に落ちた。
　そこには、額に赤い宝石の埋まった、紫の肌とツノを持つ、魔物の顔があり……その顔を二つに分けるように、斜めに長い、爪あとらしき傷が見えた。

　「……ひでぇだろ？
　　あのジェイヴァって水竜にやられたんだよ。
　　せっかく仲間と川に潜んで、やってきた人間を食おうとしてたのによ、
　　あのヤロウ、この村の者に手出しはさせん、とかなんとか言って、
　　さんざんに痛めつけやがった」

　そして、自らのローブを勢いよく、はがす。
　二枚の翼と、長い尾っぽ、そして、骨そのもののようながりがりの魔物の身体があらわになった。

　「俺は何とか逃げ切ったが、あいつに呪いをかけられちまってな。
　　それ以来、この体なのさ。
　　……竜も魔物も似たようなモンなのによ。善人面しやがって。
　　ふざけんじゃねーっつーの」

　そう言いながら、自身の身体を見て、悔しげに歯を見せる。

　身勝手な言い分だ……そう思った。
　……だが、そんなことはもう、私には関係なかった。

　……そう。大事なのは、そんなことではない。
　私は、目の前で無残に壊れた机を見る。
　机は雄弁に語っていた。
　……既に、私の身体がこの男の力に蝕まれているであろうことを。

　……それがいつからかは知らない。
　彼女にあの竜への愛を告げられ、森をさまよっていた時か、それとも、竜への憎しみに駆られ、あの呪文を唱えた時か。それとも……。

　……いや、そんなことは、構うまい。

　この男の力は、私を蝕み……いずれは、願いに執着したその部分だけを残し、他の全てを……この身体と魔力を、のっとるのだろう。
　……魔物との……悪魔との契約とは、そういうものだ。

　――だが、それでも。
　それでもこの魔物は、あの竜に大事なものを奪われ、あの竜を憎んでいる。
　……この私と、同じように。

　同じ目的が……同じ願いがある限り、私の意志は消えたとは言えない。
　あの竜を苦しめるという、私の復讐は果たされる。
　そして、目的さえ果たされるのならば……もう私の命など、必要ない。

　そしてこの命をなくせば……この暗い世界にいる時間を終え、彼女のいる世界に、近づける。

　彼女が幸せで、彼女の笑顔が、存在していること。
　それが、私の望み。

　「ククッ……」

　私は、笑っていた。
　この男と、同じように。

　それがただ自分の気持ちから来るものなのか、この男の魔力の影響なのか、そんなことは……どうでもいい。

　私は、笑い続けた。

　ああ……初めてだ。
　初めて、ここに来て初めて、全てが自分の望みどおりに動こうとしている。
　私はなんと、幸運なのだ。

　胸をそらして、笑い続ける。
　何故かしずくが、ぽとぽと床に落ちた。

　……その後も日記は、続いていた。

　だが、それが誰の気持ちで、何が言いたいのかは、もう、わからないままに、そのうち完全な白紙となった。

　初めの方にあった走り書きが、最初から書かれていたものなのか、これ以後に書かれたものなのかはわからなかった。
　……だが、それが後悔を示していることだけは、ところどころから読み取れた。

　……いつの間にか、自分が胸をおさえていたことに気づいた。

　……わかっている。

　そう、口の中で呟く。

　わかっていた。
　たとえどんな理由があろうと、彼のしたことは、決して許されることではない。そのことは、充分に。

　だが、それでも、胸に何かが――何か熱いものが宿るのは……きっと、自分にも、いるからなのだろう。
　誰よりも、何よりも――世界と同じくらいに、大事な人が。


　何とも言えぬ思いにかられ、考え込んでいると、不意に、後ろから声をかけられた。
　あわてて振り返ると、その大事な人、と、真っ先に思い描いた相手が、部屋の扉からのぞいていた。

　……何をしているのか、と聞かれ、返事につまる。
　少し間があり、本を落としたから、拾っていた、とだけ答えた。

　それを聞き、言われた相手も、少し黙る。

　……だが、そのことについては言及せず、もう皆、館を調べ終わり、入口に集まっている。なるべく早く戻って来るように、との旨を伝えると、そのまま部屋を出て行った。

　……おそらく、何かしら感じるところはあったのだろう。
　だが、それでも追求しないでいてくれたことに、心の中で感謝した。

　気を使わせてしまったことと、話せなかったことについて、軽い罪悪感もなくはなかったが……何故か今は、言いたくなかった。
　自分でも、この感情がわからない、今は。

　そして、日記を閉じ、布にくるむと、そっと自分の荷物にしまい込み、そのまま部屋の扉へと向かった。

　……なぜそんなことをしているのか、そのときは自分でもよくわかっていなかった。
　だが、部屋を出て、扉を閉めるために部屋の中を振り返ったその時――気づいた。

　――ああ、そうか。

　自分は、思ったのだ。
　あの日記が、窓辺で伏していた。最初に、それを見たときと、同じように。
　ただ、このままにしておくのは――
　しのびない、と。

　そして、それに気づくと同時に、決めた。
　明日の、朝早く。
　花と、この日記を、彼の物語が終わった場所へ、持って行こう。

　彼のしたことは、決して許されることではない。
　……それは、変わらない。

　だが――たとえどんな者であろうと、これは、この日記は、彼が心から人を愛した、その、証。
　それはきっと、尊い感情である……そのことは、違いないから。

　そう決めて、扉に手をかけ、手元に引き寄せる。
　扉が閉まる瞬間、部屋の中で、何かが光った気がした。

　それは、窓から受ける日ざしとは違う、何か、違う光――そう、見えた。

―Fin

（以下コメントにつき薄字・見たい方はマウスでドラッグしてください。）

　前中後編と長くなりましたが、最後までおつきあいありがとうございます。
　一応作品内の読み手、は青ルートの誰でもＯＫかなーと思えるようには書いたつもりですが……イメージで言えば主人公かリンあたりが近いかもしれません。
　改めて、あとがきまで読んでくれて、本当にありがとうございました。