望ンダ光

中編

　――その後は、非常に短い日記が続いた。

　初めての恋に、それと気づかぬままにのめりこみ、浮かれていた分、想いが叶わないとわかると、何もやる気が出なくなってしまったようだった。
　内容はともかく、毎日きちんと書かれていたそれまでの日記に比べ、日付が飛ぶ日も多く見られた。

　だが、時折、彼女のことと、その相手の男が誰なのか、が気になるような記述も見えた。

　そして、そんなふうに一行二行の日記が何日か過ぎた後、久しぶりに、長い文章が姿を現した。

　『今日、私を訪ねて来る者がいた。
　　誰にも会いたくない、そう言って追い返すよう門番に言ったが、相手は彼女の名を言い、そのことで私に話がある、そう、門番に伝えたらしい。

　　何故、彼女のことを？
　　私はともかく、その人物に会うことにした――』

　……そいつは、見るからにうさんくさい男だった。

　暗闇をまとったかのような色の、ぞろっとした長いローブ。その暗闇に顔まで埋もれた、いるだけで周囲までをも暗くさせるような、そんな空気を持った男。
　ローブの上からでもわかる、小さいやせぎすの体と、唯一見える口元には、何とも言いようのない、気味の悪い笑みを浮かべている。

　……怪しいにも、程がある。

　彼女のことで話がある、などと言われなければ、問答無用で追い出していたところだ。いや、こんな怪しい男の言葉を、門番が私にちゃんと伝えたこと自体、奇跡だと言っていい。
　……私は、早々に男に尋ねた。

　「おまえは何者だ。
　　彼女のことで話とは、一体何のことだ」

　すると男は、その場にヒザをつき、こう言った。

　「はじめまして、偉大なる領主、リュウベン様。
　　お目にかかれて光栄でございます」

　そう、朗々とした声で言って、私の前で深く頭を下げる。
　それは、宮殿では当たり前の、自分より身分の高き者に対する、正式なあいさつ。
　正しい礼儀をはらわれたのは、果たして何年ぶりのことであろうか。
　……私は少し、この男に好意を持った。

　「あなた様のお噂は、常々うかがっております。
　　王家の血に連なる、由緒正しき家系のお方。
　　その上、魔道の方にも素晴らしい才能をお持ちだとか。
　　私は、そのような素晴らしいあなた様にこそ
　　お仕えしたいと思いまして、この館までやって来たのでございます」

　そうやって、次々と賞賛の言葉を並べる。
　……どこまで本気なのかはわからなかったが、悪い気はしなかった。
　正直と礼儀知らずを履き違え、お世辞一つ使えない者よりは、こっちの方がよほど、好ましい。

　「それで、話とは？」

　……私の口調は、自然、先ほどより柔らかくなっていた。
　男は私の様子を伺うように、頭を少し低くしたままで答えた。

　「はい。
　　実は、どうしてもお耳にいれたいことがございまして……。

　　エレナは……あなたの想い人は、
　　悪い化け物に、騙されているのでございます」

　「！？」

　突然の言葉に動揺する。

　――何故そんなことを、いや、そもそも何故、私が彼女を想っていたことを知っている！？
　……そう私が問うより早く、男は、この館の使用人から伝え聞いた、と答えた。

　……自分ですら、ごく最近に気づいた感情、それも、できることならば誰にも知られたくない想いを、周りの人間が知っていた。
　それも、見知らぬ男が伝え聞くぐらいだ。おそらく村の者たちにも、あますことなく広がっているのだろう。

　激しい羞恥と悔しさで、みるみる顔が熱くなった。

　――あのおしゃべりどもめ、今日限りでクビにしてやる！

　私がそう決意し、震えるこぶしを握りしめていると、男は続けた。

　「あなたは、ただ純粋に彼女を愛しておられた。
　　ですが、彼女は既に恋人がいた……。
　　それゆえに、彼女の幸せを願い、自ら身をひいた。
　　そのように、聞いております。

　　……ですがリュウベン様、このことはご存知でしたか？
　　彼女と逢引しているあの男は、実は人間ではない、ということを」

　「な……っ！？」

　あまりのことに、思わず怒りも忘れ、顔を上げた。

　……人間ではない？あの、男が？

　男はそんな私の動揺を知ってか知らずか、変わらぬ様子で言葉を続けた。

　「……あの男は、実は竜の化身なのでございます。
　　魔法で姿を変え、人のように見せてはいますが……
　　その正体は、汚らわしく恐ろしい、竜。

　　……そのような化け物と恋をして、
　　本当に彼女が幸せになれると思いますか？
　　人は人同士、竜ならば竜同士、愛し合うのが一番だとは思いませんか？」

　……頭が混乱していた。
　男が何を言いたいのか、よくわからなかった。

　あの男が……竜の化身？
　彼女は……騙されている？

　私は、ただ呆然と告げられた言葉を繰り返す。
　……男が少し、笑った気がした。

　「……もし私の言葉をお疑いなら、どうぞその目でお確かめください。
　　彼女と男は、今日も日暮れの後に
　　あの湖のほとりで会うことになっています。

　　……今宵は満月。
　　月と湖に映るあの男の影を見れば、あなたも納得するでしょう。
　　あの男の本性が、いかなるものか、が」

　そう言うと、最初と同じように、私に近づき、跪いた。

　「……どうか、お忘れなきよう。
　　私は、あなたのしもべ。
　　私だけは、あなたの味方なのでございます」

　男はそう言い終えると、ローブをひるがえし、静かに部屋を出て行った。
　……私は、混乱する自分を抑え、その背中を見送るので精一杯だった。

　……夜。
　満ちた月が森を照らす、その時間。

　私は……あの湖のそばにいた。
　湖をつつむ茂み、その陰に身をひそめ、じっと、その時を待っていた。

　――あのような男を信じるのか、その言葉が嘘だったら、また二人の姿を見て傷つくだけではないか――

　私の理性が、何度も私にそう問いかけた。

　だが、それでも……それでも、私は動けなかった。
　もし、本当にあの男の言葉が真実で、それで彼女が騙されているのだとしたら……そう思うと、どうしても確かめずにはいられなかった。

　そうして、自問自答を、自身への言いわけを繰り返し、どれくらい時間が過ぎただろう。

　……足音が聞こえた。
　打楽器をせわしなく叩くような、早くて軽い、リズムのような音。
　それは、足音の主が、ほんの少しの時間も惜しんで、森を駆け抜けている……そんな様子が、目に浮かぶような音だった。

　遠かった音が近くなり、茂みを揺らして、一つの影が森から湖のほとりに身を躍らせた。

　……エレナ……彼女、だった。

　日の光のない薄闇の中でも、その長い髪と華奢な手足は特徴的で。
　身にまとう輝きは眩しくて……綺麗、だった。
　できることなら、その姿をただ漫然と見ていたかった。
　だが……

　彼女が現れてすぐに、男もまた、姿を現した。
　私の位置や体勢のせいで、よくは見えなかったが、体格からして、前に見たときと同じ人物である、と思った。

　……のどに、何かがつかえた気がした。
　立ち上がりたい、漠然と、そう思った。

　――違う。そんなことをしに来たんじゃないだろう。

　……自分に自分で、言い聞かせる。

　そう……そうだ。
　私は、彼女を見に来たわけでも、二人の邪魔をしに来たわけでも……ない。

　――確かめに、来たんだ。
　彼女が騙されていないか。あの男の言葉が真実かどうか。

　いつの間にかひそめていた眉と、深く閉じていた、まぶたを開く。

　――確かめなければならない。絶対に。

　そう呟くと、奥の歯に力を込め、月の光に、二人の姿を映す湖に、目を向けた。


　湖に映るのは、かかとを浮かせ、全身を預ける彼女の姿。そして、それに寄り添う……巨大な、青い竜。

　……自分の目を、疑った。

　思わず、地上の二人に目を向ける。

　湖のほとり、微笑みを浮かべながら身を預ける彼女のそばにいるのは……まちがいなく、人の……人間の男。

　だが、湖に映ったその姿は……何度見ても、恐ろしく険しい目つきをした、巨大な青い竜……それ以外の、何物でもなかった。

　……いつの間にか、食いしばっていた歯がカタカタと音を立てていた。
　地上にたたずむその姿とは似ても似つかない、その本体の姿。
　自分など、人など、簡単に踏み潰してしまうであろう、人の力の及ばぬ体躯。
　単純に、怖い、恐ろしい……逃げ出したい。そう思った。

　けれど……。

　彼女の姿が、目に届く。
　嬉しそうで、幸せそうな、その表情。何のためらいもなく、無防備にあずけた、細い身体。
　……その相手の正体が、恐ろしい竜だとも知らずに。

　――だめだ。

　逃げ出せない。
　そう、思った。
　今逃げ出してしまえば、このままにしておけば、いつ彼女があの魔物の犠牲にならぬとも限らない。

　――それは、だめだ。それだけは、耐えられない。

　こぶしを握りしめ、脅える身体に力を込める。
　身体の奥まで染み通るよう、深く息を吸い込んだ。

　――伝えなければならない。
　このことを。
　たとえ恐ろしいとしても。
　彼女をみすみす、失ってはならない――。

　頬を伝う汗を感じながら、自分の心に言い聞かせた。
　強い決意を、変わらぬ意志を、自分の中に固められるように。
　湧き出でて止まらぬ恐怖に、意志の炎を消されぬように――。

　月が沈み、新たな日が顔を出し。
　明るい光と、すがすがしい空気が包む、森の中で。

　彼女はいつものように、ゆっくりと歩いていた。
　転ばぬように足元を見ながら、静かな微笑みと、優しげな光をまとって。

　その光を感じた瞬間、自分が目を細めたのがわかったが、その理由はわからなかった。
　……彼女を見たかったのか、見たくなかったのか。
　わからぬままに、ひとすじ、こめかみから汗がつたって落ちた。

　彼女はじっと立ちつくす私に気づくと、顔を上げ、声をかけた。

　「まあ、お久しぶりですね。
　　しばらく姿を見ませんでしたけど……
　　どうかなさってたんですか？」

　明るい声と、笑顔。
　世界には何のかげりも、不安もない、そう心から信じてるような、無防備な笑顔。

　それは、あの男を愛しているゆえか。

　……そう思うと、知らず、歯を食いしばっていた。
　あの男は、あの、男は……。

　「……？
　　あの、何か……？」

　彼女が困ったように眉をひそめた。
　……きっと私は、おかしな顔をしていたのだろう。
　だが、それを改善する余裕は、私にはなかった。

　――言わなければ、ならない。
　たとえそれで彼女が傷ついたとしても、それが彼女のためなんだ……！

　そう、自分の内で何度も繰り返すと、私は言葉を引きずりだした。

　「あの、男は……
　　あなたが湖で会っている、あの男は……！」

　彼女の顔を見ると、声が出なくなりそうで。
　だから、目を閉じたまま、必死で、腹から声をしぼりだす。

　「……人間じゃ、ない！
　　あの男の正体は、恐ろしい竜なんです！」

　……魂すら、口から吐き出した……本気で、そう思った。

　眉間に力を込めたまま、そのまま地面と、自分の足元に視線を向けた。

　――言ってしまった、ついに、彼女を悲しませてしまった。

　いくらそれが事実とは言え、彼女のためを思ってとは言え、自分の愛した男が人でない、そう知ったら、彼女はどれだけ悲しむだろう。

　そう思うと、彼女の顔が見れなかった。
　できることならこのまま、逃げ出したかった。

　……だが。

　「……知っています」

　思いも寄らぬ言葉に、私は無意識に顔を上げた。
　彼女は静かに、しかし、真剣な瞳で、私を見ていた。

　「……ジェイヴァは……あの人は、確かに人ではありません。
　　けれど、私は、そうと知っていて……彼を好きになったんです。
　　だから彼は、私のために人の姿になってくれたんです」

　静かな、けれど、はっきりとした……強い、言葉。
　それは、彼女の心に迷いがないことを、彼女の真実がそこにあることを、明確に示していた。

　「それに、あの人は、恐ろしい竜などではありません。
　　確かに姿は竜ですが……
　　その心は誰よりも優しくて、澄んでいるんです。
　　まるで、あの湖みたいに。

　　だから私……あの人を、愛しているんです。
　　たとえ、誰に何を言われても」

　彼女は、はっきりとそう告げ――私には、もう何も、言えることはなかった。

　「……失礼します」

　彼女はそのまま、私の横を走り去った。

　それは、私に自身の愚かさと、器の矮小さを思い知らせ――私は虚脱感に包まれながら、その場に立ちつくす他、なかった。

　そうして、どれだけの時間が過ぎたのだろう。
　気がつけば、私は、暗くなった森の中を、ふらふらと歩いていた。

　もう、何もかもがどうでもいい。何も考えたくない。
　……そんな風に、呟いていたのかもしれない。

　いつの間にか、私の横にあの長いローブの男がいたが、声をかける気も起きなかった。

　しかし男は、そんな私の様子にかまわず……いや、それともそんな様子だから、だったのだろうか……雄弁に、私に話し始めた。

　「……かわいそうなリュウベン様。
　　彼女のためを思って言った言葉なのに、彼女はそうと気づかないなんて」

　――……うるさい。元はといえば、おまえが……

　そんな思いもよぎったが、言葉にするのもおっくうで、結局声には出さなかった。
　……だが。

　「……でもね、リュウベン様。
　　悪いのは彼女ではなく、あの青い竜なのです」

　どくん。
　血が、身体を巡る音を感じる。
　思わず、耳をすまして男の言葉を待った。

　「あの娘は竜の呪い……悪いまじないで、心を奪われているんですよ。
　　竜が使う呪いは強力です。
　　かけられた相手は、何年も、自分が操られていることにさえ、気づかない。
　　そんな恐ろしい呪いに、彼女はかかってしまってるのです」

　顔を、向ける。
　男の口は、相変わらず赤いまま、せわしなく動いていた。

　「……けどね、その呪いを解く方法があるんです。
　　竜を、殺してしまえばいい。

　　……竜を殺せば、彼女の目も覚める。
　　そして、悪い竜を退治し、正気に戻してくれたあなたに、
　　心から感謝するでしょう」

　そう言って、男の口は、三日月形になり……うさんくさい、あの笑みを浮かべた。

　――……この男の言葉は、信用できるのだろうか？

　そんな疑問が胸の内を騒がせる。

　――だが、確かに、この男は私に真実を伝えた。
　だから、今回も、真実であるかもしれない。
　……いや、きっと、真実だ。

　その時、私はそう思った。
　……そう、思いたかった。

　「……どうすれば、いい？」

　私は聞いた。
　男は嬉しそうに笑い、考えがある……そう、言った。

―to be continued

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