いつか訪れるその日のために

　「泣くな」

　……声がする。

　「泣くんじゃない」

　聞きなれた声。
　大きなかたい手。
　その手が、私の頭をぽんぽんとやわらかくたたく。

　顔を上げ、その手の持ち主をさがす。
　なのに、正面を見ても、なぜかその姿が映らなくて。
　おかしいな、そう思って、私のそばにある腕にそって、視線をずらしていくと、ぼんやりと、その人の形が浮かび上がる。

　きりっと引きしまった目つき。
　濃い眉毛に、強く結ばれた唇に、眩しい頭。

　いつもよりその頭からの光が強く、眩しく感じるのは、気のせいだろうか？
　その姿を、表情を、はっきりと感じたくて、目をこらしていると、一瞬、光が弱まり、ひどく厳しい顔が、私の目に飛び込んできた。

　「天使たるもの、心を殺してでも人を導かなければならぬ」

　……怖いほどに、強い瞳の色。

　どうして？
　どうしてそんな顔をしているのですか？

　師匠……？師匠…………。

　…………。

　師匠、そう呼びながら、目を開ける。
　夢うつつの中、伸ばした自身の手の先に、年代を感じさせる木の天井が、ぼんやり姿をあらわした。

　……どこだろう、ここは。

　少しずつ、視界がはっきりとしてくるが、まだ思考は動き出さない。
　とりあえず、自分が住んでいる天使界のどこかではない、それは確かだったが……。

　……どこなのかなあ、そう、小さく口に出したとき、自分の頭の横に、誰かの気配があることに気づく。
　誰だろう、ぼんやりとしたままそう思って、気配の方向を向こうとして……

　「つぅ！」

　全身に痛みが走って、一気に目が覚めた。
　その声を受けて、自分の腕を枕にうたた寝をしていたらしい気配の相手が、身を起こし、私の顔を覗き込んだ。

　「……目が、覚めた？」

　女の子らしく切りそろえられた青い髪、頭に巻いたオレンジのバンダナ。
　そのぱっちりとした瞳とよく通る声には、覚えがある。

　……リッカ。
　私が守護を担当する、ウォルロ村に住む、優しく信心深い、人間の少女だ。

　私が彼女を見つめるばかりで、何も答えないのを見てか、リッカは私に、もう一度声をかける。

　「大丈夫？あなたすごい音をたてて滝から落ちてきたのよ？」

　ああ……と、私は、自分がどうしてこうなったかまでを思い出した。

　人間の感謝の心の結晶である、星のオーラ。
　それを天使界の頂上にある世界樹にささげ続け、女神の果実がなった時、天使たちは天の箱舟で神の国に導かれる……。

　その言い伝えを信じ、私たち天使は、地上よりはるか高い位置にある天使界に住み、何万年もの間、人間を守護し、助け、星のオーラをささげ続けた。
　そして、その女神の果実が実るための、最後の星のオーラをささげたのが……私だったのだ。

　――すべて言い伝えの通りじゃ！

　天使界の長老、オムイさまと、私の師匠であるイザヤールさまに見守られ、このウォルロ村で得た星のオーラを世界樹にささげ……黄金色の輝きとともに実った女神の果実、そして天使界に着陸した黄金色の乗り物、天の箱舟を前に、そう言って長老さまがはしゃいだのを、よく覚えている。

　しかし、急に妙な力が天の箱舟を、そして天使界を貫き……その力の起こした揺れと衝撃波で、私は天使界の地面にしがみつくも耐えきれず、天使界から弾き飛ばされてしまったのだ。

　途中で半ば意識を失ってしまったため定かではないが、おそらくそれで飛ぶこともままならず、地上、それもこのウォルロ村の滝に落ちてしまったのだろう。

　……おまけに、人間である彼女に姿を見られているということは、少なくとも天使の姿を人間から見えなくする、天使の光輪は消えてしまっているらしい。

　さて、どうしたものか……そう頭の中で事態を整理して、これからのことについて考えていると、リッカは私の額に置かれていた湿った布をとり、水の入った洗面器につけてしぼると、再び私の上に置いた。

　……冷たい。
　でも、気持ちいい。

　「……まだ熱があるみたいね。
　　でも昨日よりは熱がさがってるから、きっと大丈夫！
　　早くケガが治るように、一生懸命看病するから、心配しないでね！」

　……そうか、熱もあったのか。
　確かに、意識をなくしたまま彼女の言うように滝に落ちたのであれば、それも無理ないことだろう。

　「あ、そうだ！あなたが目を覚ましたってこと、おじいちゃんにも知らせなきゃ！
　　おじいちゃーん！」

　……そう明るい声の響きと、あわただしい足音を残して、リッカは階下へとおりていった。

　彼女の言動、そして守護天使としてこの村を見守ってきた記憶からして、どうやらここはウォルロ村のリッカとその祖父が住む家の、二階の部屋であるらしい。
　守り、導くべき相手に助けられるとは、まったく人生……いや天使生、何があるかわからないものだ、私はそう呟いた。

　……冷たい布のおかげで、熱のある頭でも、幾分まともな判断力が戻り、少しずつ思考が動き出す。

　たぶん、ではあるがこの傷の痛みも、この熱も、長く続くものではないだろう。
　師匠の指導のおかげで、自分の体調と回復力、そして体力の限界に関しては把握している。
　おそらく、数日もすれば完治し、自由に動けるようになる。
　……もっとも、人間から見ればかなりの重傷に見えているだろうから、たとえ完治したとしても、それなりの演技をしなければならないが。

　……それにしても、先ほどの夢には驚いた。
　おそらく熱のせいで、いくつかの出来事がごっちゃになってしまったのだろうけれど……。
　そう心の中で呟くと、自然、脳内でその元になったであろう、師匠との記憶が再生される。

　おそらく、元となったのは、あのときのこと。
　飛行の修行をした、あのときだ。

　……天使には、いくつかの階級がある。

　生まれてすぐは、まだ階級がなく、年齢の近い子供たちが一つの部屋で共に暮らし、年長者や他の天使の指導のもと、共に学び、育っていく。
　そしてある程度成長し、師匠につくことで、見習い天使という仮の階級を得て、修行の末、人間の村を任されることになると、守護天使という階級につくことができる。

　もちろん、天使の仕事はそればかりではないし、他にも階級というものはあるけれど。
　……とにかく、天使界のならわしで、飛行をしていいのは、師匠を持った「見習い天使」になってからだった。

　その主な理由は二つ。

　足腰を鍛えなければ、人間を守るために魔物と戦う体力が身につかないということ。
　人間を守るのが本分の天使が、いざというとき体力不足です、では話にならない。

　……しかし、実は翼による飛行と言っても、決して見た目ほど楽な行為ではないから、足を使わず、飛び回っていたところで、それほど体力不足になるわけではない。
　一番の、本当の理由は、正しい飛び方、気流や風のつかみ方を知らぬまま飛行をしてしまっては、ケガを負う可能性が高いからなのだ。

　地上からはるか高い場所にある、天使界。
　つまりそれは、常に地上よりも激しい気流の動きや、強風にさらされているということに他ならない。

　もちろん、そう言った事情であるから、天使は人間よりもはるかに強い肉体を持ち、地上に落ちても命を落とさない程度の強固さは持ち合わせているが……それでもケガはするし、弱ったところを魔物に襲われてしまっては、命を落とす危険性もある。

　それゆえ、師匠から正しい飛行法を習うまでは、決して天使は飛行してはならない……というならわしがあるのだ。
　……もちろん、中には他の天使の目を盗み、自力で飛行法を覚えてしまう、ワンパクな天使もいるにはいるが。

　とにかく、当人の資質、およびめざす進路にかかわらず、師匠についた見習い天使は、必ず飛行の修行をすることになっている。

　ゆえに、私もイザヤールさまの弟子になった時、飛行の修行を受けたのだが……思いの他、それは厳しいものだった。

　最初は、飛ぶための正しい羽の動かし方。
　それにより、ある程度自由な浮遊と飛行ができるようになってからは、その浮遊を長時間続ける、持久訓練。
　それをクリアした後には、天使界を言われた順番で飛びまわり……最後に待っていたのが、アイスバリーという極寒の地で行われる試練……見習い天使の中での通称、氷結地獄の業だった。

　なんでも、200年ほど前にイザヤール師匠自らが考案、制定した修行法であり、未だかつて、これを一度でクリアした天使はいない。かくいう師匠本人ですら、この修行を乗り越えるのに長い年月を要した……という恐ろしい代物だ。

　……なんでそんな修行を考案し、あげくに見習い天使に強制するのか、とこの件に関しては他の見習い天使からの苦情が絶えず……弟子の私もそれは否定できず、同意せざるを得なかったが……ついに私も、その氷結地獄に挑む日をむかえてしまった。

　師匠に連れられ天使界から出発し、雹混じりの吹雪が舞う、アイスバリー海岸の上空周辺にたどりつき。
　師匠の腕にしがみつくようにして、そのオンオンという泣き声にすら聞こえる暴風地帯に突入、いやいや師匠から手を離した瞬間……案の定というか、当然というか、私は見事に吹っ飛んだ。

　「しっかりしろ！風を読め！基本は天使界での修行と同じだ！おまえならばやれるはずだ！」

　……たとえ基本が同じでも、天使界とは風の勢いが段違い、それに天使界の周りの空には、身体を打ちつける雪と氷と、おまけに鳴り響く雷など存在しない。
　極寒の気温に、鼻や耳があっと言う間にしびれるような痛みを放ち、師匠の喝も、寒さと強風で心身ともにぐるぐる回っている中では、ほとんど頭に入ってこない。

　「甘えるな！根性を見せよ！風をつかむまで天使界には帰れぬぞ！」

　……別な形で天使界に帰れそうです……むしろ土になってこの星に帰れるような気がします……

　思わずそんな弱音を頭に浮かべながらも、かちかちと音を立てる歯を無理やり食いしばり、気合いを入れて頑張ってはみたものの……体勢を変えようと翼に力を入れれば風にあおられぐるぐるとその場で回転、力を抜けばそのまま吹っ飛び、いつの間にか修行するべき強風域から出ている始末。

　強風の中でもびくともせず、飛行し続ける師匠のアドバイスを聞きながら、ああでもないこうでもない、と試行錯誤を繰り返しているうちに体力は消耗し……気がついたときには、前におれまがった体勢で、師匠の小脇に抱えられていた。

　「……師匠……」

　「目が覚めたか。ではそこの島で一度休憩するぞ」

　そう言って師匠は、緑に包まれた小さな島を示す。
　……あそこなら、あたたかそうだ。
　半開きの目でぼんやりそう思ったその時、

　「そして薬草で体力を回復したら、また特訓の続きだ！」

師匠はそう高らかに告げ……私が目を開けたままにする気力もついえ、再びぐったりとしたのは、言うまでもなかった。

　ぐったりと身をまかせたまま、島の放つあたたかさが近づくのを感じ、音と軽い振動、そして師匠の大きな翼の起こす風の感覚で、大地に着地したのがわかる。

　「おい、着いたぞ。立てるか」

　……師匠にそう言われては、自分の足を使わないわけにはいかない。
　私は肯定の返事をしぼりだすと、師匠の腕に捕まりながら地面に足をつけ、そして目の前にあった太い樹の幹に、背中から飛び込むようにして座りこんだ。

　……普段さほど気にしない木の表面や、何の変哲もない地面すら、ひどくあたたかく感じる。
　ぽかぽかとした日の光がとても心地よく、私は目を閉じ、外側から体内にじわりと広がっていくあたたかさに、しばらく身をまかせることにした。

　極寒の中で体温とともに奪われた手足の感覚が、太陽によってじわじわと戻っていくと、少しずつ心が落ち着いてくる。

　ずいぶんとそうやってあたたかさに身をひたしたところで、目を開けると、師匠も木を背に座り込んでいた。
　目を閉じて、頭を軽く下げているため、太陽の光がその頭に反射して、少し眩しい。

　……師匠も、寒かったのだろうか。

　ふとそんなことを思い、そしてその、自分のバカげた思考に驚いた。

　寒かったも何も、あの極寒の地で、いくら鍛えた肉体であろうとも寒さを感じないはずはないし、よく見ると、自分と同じぐらい、いや、自分以上に雪や氷の溶けた水で、周りの地面ごと濡れている。

　……師匠も、寒かったんだ。
　でも、ならばどうして……

　「……師匠、師匠は、どうしてあのような修行を思いついたのですか？」

　……ふってわいた疑問を、私は思わず口に出す。
　自分まで寒い修行を、わざわざ考案し、恒例行事にしようだなんて、どうにも不思議で仕方がない。

　私の質問に、師匠が閉じていた目を開け、こちらを見た。

　――まずいことを聞いただろうか、それとも、眠っているところを起こしてしまったのだろうか。

　師匠の少し厳しいまなざしに、私は一瞬、そんなことを思う。
　しかし師匠は、すぐに立ち上がると、いつものようにしっかりと背筋を伸ばし、胸をはって私に言った。

　「……あの海岸の上空は、地上でもっとも激しい風の吹く場所だ。
　　空を自由に舞う天使の翼といえども、ほとんど無力になってしまう。
　　……それはおまえも、身をもって実感しただろう」

　はい、と私がうなずくと、師匠は満足げに話を続ける。

　「しかしだからこそ、あの場所で自由に飛行、浮遊ができるようになれば……
　　たとえ空中のいかなる場所でも、自由に動くことができる。

　　……仮に翼を傷つけてしまい、あるいは失くし、落下したとしても……
　　空中で動き、進路を決めることで、少しでも安全な場所を選び、負う傷を軽くすることができる。
　　これは、そのために……自身と、そして守るべき者の命を守るため、必要な修行なのだ。
　　……わかるな？」

　なるほど、そうなのか……と一瞬納得しかけ、しかし同時にわいた疑問が、私に即座にうなずくことを躊躇させた。

　「どうした？」

　私の表情の変化を感じとった師匠が、そう尋ね……少し迷ったが、私は再び、疑問をそのまま口にした。

　「はい、修行の意図は、わかったのですが……
　　師匠、天使が翼を傷つけ、失うなどということが、ありえるのでしょうか？
　　私は、今までそのような事例を一度も聞いたことがないのですが……」

　その瞬間、師匠の顔が、ひどく険しくなった。
　それは、本当に怖いくらい険しくて……だけどどこか、痛いような、悲しいような、そんな表情で。

　反射した光の見せる目の錯覚か、と思うくらい意外なその顔に、私は思わず視線を下にずらし、自分の言葉を思い返す。……そこまで悪いことを言ってしまっただろうか、と。

　「……ちがうのだ。
　　おまえのせいではない」

　けれど、次の瞬間、そんな師匠の言葉が聞こえて。
　もう一度見直すと、師匠はいつもの顔に戻っていた。
　厳しいけれど、どこか優しげな……いつもの師匠の顔に。

　「……そういうこともある、ということだ。
　　おまえはまだ見習い天使であるから、実感がないかもしれないが……
　　守護天使になれば、魔物と戦うこともあるし、
　　天候にかかわらず、単独で行動しなければならぬ事態もある。
　　その結果、魔物の攻撃や、強風などで破損した物体、
　　時には雷などで、翼を傷つけてしまうこともあるのだ。

　　……天使たるもの、常に最悪の事態を想定し、備えなければならぬ。
　　そしてその最悪の事態をできる限り回避するために、動かなければならない。

　　そのために、やるべきことを次の世代に課し、身につけさせる。
　　それも天使の……誰かを助け導くものの、重要な役目なのだ。……わかったか？」

　……正直、少しわかりづらくもあったし、いまいち言葉がつながっていない気もしたけれど。
　それでも、それ以上このことを聞くのは、怖いような、悪いような気がして。
　だから今度は、はい、と素直にうなずいた。

　「よし、では、これを使うがよい」

　そう言って、師匠は満足そうに笑うと、私に近づき、薬草をさしだした。
　感謝の言葉を言いながら、私はその薬草を受け取り、ありがたく使おうとして……

　「休憩はこれで終わりだ。
　　それを使ったら、再びアイスバリー海岸へ急ぐぞ！」

続いた師匠のその言葉に、思わず薬草を投げ捨てたい衝動に駆られたのだった……。

　そして、その後も永遠に終わらないのではないかと思われる、氷結地獄との戦いは続き……。
　それでも日々少しずつ、師匠の指導と、経験者からのアドバイスを受け……なんとか師匠から合格のお墨付きをもらったその日、私は泣いてしまった。

　安堵感によるものか、解放感によるものか、よくがんばったな、そう言って師匠に頭をなでられたとき、ぼろぼろと涙がこぼれてしまったのだ。

　師匠があわてているのもわかったし、どうにか涙を止めようと努力もしたのだけれど、それが逆に悪かったのか、まったく涙は止まる気配を見せず……結局、最後は師匠にしがみついて、しばらく泣き声をあげていた。

　思う存分師匠の服を濡らし、やっと涙がおさまって。
　こみあげてくるしゃっくりをなんとか押し込め、やっと落ち着きを取り戻したとき、師匠は私に言ったのだ。

　「……泣くことは悪いことではない。
　　だが、これだけは覚えておけ」

　真剣な顔で、私を、おそらく赤くなっているであろう私の目をじっと見つめながら。

　「我々天使は、人間を守り、導くために生まれた存在。
　　……だが人間とは、多くの顔を持つ生き物だ。
　　だからこちらが相手によかれと思ってした行動が、悪い結果につながったり、
　　時には相手を堕落させてしまうこともある。

　　だから覚えておくといい。
　　もし誰かを導き、助けるのであれば……時に自分の心を殺すことも必要なのだと」

　「心を、殺す……？」

　私は思わず聞き返す。
　師匠は私を見たまま、ひとつ、うなずいた。

　「ああ、たとえその相手が好きだから、大事だからと言って、
　　相手の願いや要求を、ただ聞き届けるだけではいけない。

　　相手がもし悪の道に走ろうとしているのならば、時には厳しさを……罰をもって止めるのも、
　　天使としての大事な任務なのだ。

　　たとえそれで、相手に恨まれ、嫌われてしまったとしても。
　　それが相手のためであるなら、相手が後悔を抱えて生きぬための選択ならば……
　　涙を止めてでも、自分の感情を殺してでも、厳しく接することが必要になることもある。
　　……それを、覚えておきなさい。

　　おまえがいずれ人間を守るため、地上へと旅立つ守護天使となる身であれば……
　　いや、この天使界に身を置き、いずれ弟子を取る身であるならば、な」

　そう言って、師匠は私の頭をやわらかくなでた。
　言葉の厳しさ、かたさとは裏腹に、その手はとても優しくて、あたたかくて。
　だから、きっと、この言葉も私のためなのだろうと、いや、あのアイスバリーの特訓で見せた厳しい顔も、すべて私を思ってのことなのだろう、とそう思ったら……。

　……また、涙が出てきて。　
　「私の話を聞いていたのか！？」と師匠を少し怒らせて、困らせた。

　――たぶんあの一連の出来事が混じって、あんな夢を見たのだろう。

　やわらかいベッドの上で、木の天井を見ながら記憶の回想を終え、私はそう呟いた。

　……あの高みから弾き飛ばされてなお死ななかったということは、半ば無意識ながらも、あの特訓の成果があったに違いない。

　師匠に感謝すると同時に、天使界のことが思い出されて、現在の天使界の皆を思う。

　師匠は無事だろうか。あのとき、弾き飛ばされる私に手を伸ばそうとしたりして、私のように天使界から落ちはしなかっただろうか。……いや、仮に落ちたとしても、未熟な弟子の私よりはきっと丈夫だろうが……それでもやはり、心配は尽きない。
　オムイさまは、ラフェットさまは。見習い仲間のあの子は、他の皆と、お師匠さまは、居住区で一緒に住んでいた天使たちは、無事だろうか、元気だろうか。ケガなど、痛い思いなどはしてないだろうか。

　早く身体を治して、天使界まで帰らねば。いや、その前にリッカだ。助けてもらって、しかもこのように部屋まで与えてくれたのだ、何か恩返しをしなければならない。
　ああ、早く時間が経って回復しないものか、いやこんなことならもっと早く回復呪文の一つでも覚えておくのだった、いや、それよりもあのとき……

　焦る気持ちとは裏腹に、動かない身体があいまって、ぐるぐると思考だけが脳内で回り……せっかく布で冷やしてもらった頭が熱を帯び始め、遠くで、階段を駆け上る足音を聞いた時には、すっかり意識が遠のいていた。

　「……大変！また熱が！」

　その声とともに、遠い場所で感じる、ほんの少しひんやりした、心地よい感覚。

　「……大丈夫だよ、心配しないで。
　　今は何も考えないで、ゆっくり休んでくれていいから、
　　きっと、次に目が覚めたら、今よりずっと良くなってる、大丈夫……」

　遠い場所から、優しい子守唄のように、その言葉が落ちていく意識の中に流れ込んでくる。

　――ありがとう。

　落ちゆく意識に抵抗して、なんとかそう言ったつもりだったけれど……はたしてそれはリッカに届いたのだろうか？
　それを確めるすべもないまま、私は再び、夢の中に舞い戻る。

　記憶の中の、美しい天使界。
　いつもの、優しい風と空気。
　どんなに早く用意したつもりでも、いつも朝日の中、まっすぐな……背すじと胸をはった姿で、私を待つ師匠。
　居住区で、楽しそうにおしゃべりをしてる友達。私を見ると、名を呼んでくれて……

　待っていて、すぐに……すぐに戻るから……待ってて……
　そんなことを心の中で呟いて、私はひととき、美しい思い出の天使界を自由に飛び回っていた。

　――既に自身の背に天使の翼も、美しい天使界も、存在していないことなど、知るよしもなく。

―fin

002:いつかのその日はこの手の中にを読む>>